ラッピング電車4編成そろい踏みイベントの開催
JR厄神車両基地での4編成すべてを並べた写真撮影会や車内展示、運転(平成23年5月7日(土)12時~15時<予定>)
追加情報
5月7日は応募が必要な企画となりました。詳しく下記よりどうぞ
市駅の近くより北播磨の鉄道、公共交通、地域、アニメ、パソコンの話まで
地域
JR厄神車両基地での4編成すべてを並べた写真撮影会や車内展示、運転(平成23年5月7日(土)12時~15時<予定>)
追加情報
5月7日は応募が必要な企画となりました。詳しく下記よりどうぞ
3月24日付け神戸新聞22面三木神戸 21面ひょうご より
存廃の判断が下されるかもしれない11年度 事前の発表どおり兵庫県の粟生線活性化協議会負担金は見送られる模様
その影響で協議会の総事業費も半分になる模様。事業費が半減したことで事業内容も大きく絞られる見込み。
肝心な年に予算を計上しない県の姿勢に落胆です。
明石フェリーのときもそうですが、道路 特に高速道路に偏った交通政策を採っている気がしてなりません。一方で予算化を見送った背景も文面や現状をみると予想がつきます。
個人的な見解としてだがおおよそこんなところだろう。あと、記事にあるように鉄道は線路敷や駅など大きな施設を伴うため、固定資産税などの税負担が大きい。それらを自治体が保有することで鉄道事業者の負担を減らす上下分離が避けて通れないだろう。そこで問題となるのが土地や施設を買い取った場合の費用だ。記事にあるように多額の費用を自治体が負担できるのかという問題にぶち当たる。現在、財政事情が芳しくない三木市はもとより小野市が加わったところで非常に重い負担となると思われる。多額の費用をかけてまでして存続させるのかが焦点になろう。もちろんそれには地域住民、市民の賛同が得られなければならない。結果的に沿線住民の粟生線活性化への取り組みや意識向上がカギになるのだろう。
幾ら行政サイドや鉄道会社、鉄道ファンが存続を求めても、沿線や地域住民が望まなければ残すことは出来ない。
残された時間はそう長くない
加古川線で電化以来走り続けてきた横尾忠則氏デザインのラッピング電車が2011年5月以降終了になることが明らかになりました。
発表は兵庫県北播磨県民局が運営する「ハートにぐっと北播磨」で行われた模様で、加古川線等利用促進・沿線地域活性化協議会運営のラストラン公式サイト「JR加古川線 ラッピング電車 ラストラン – 兵庫県」が同サイトからリンクで設置されている。
「JR加古川線 ラッピング電車 ラストラン」サイトの情報によると
電化当時から走っていた「見る見る速い」こと目のある電車は5月15日
「銀河の旅」が7月31日
「滝の音、電車の音」が10月10日
「走れ!Y字路」は平成24年度終了
となっている。
横尾氏ゆかりの西脇市に関係するからなのか「走れ!Y字路」は最後まで走るようです。
終了後は通常のエメラルドグリーン(青緑1号)に戻される模様。
運行終了に向けてイベントも開催される模様で現時点で
平成23年5月7日(土)12時~15時(予定) ラッピング電車4編成そろい踏みイベントの開催
平成23年5月15日(日)西脇市駅(予定)「見る見る速い」最終運行セレモニー
などが予定されています。
詳しい情報は JR加古川線 ラッピング電車 ラストラン – 兵庫県 まで
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今日の神戸新聞に兵庫県の今年度と来年度予算に神戸電鉄粟生線活性化協議会への負担金を出さず予算もつけない方針と報じられた。
そして続いて、和田岬線廃線か?の記事
前者は国の方針と歩調を合わせたかのような政策に感じる。
どうも民主党政権は公共交通に対してはよく言えば厳しく、悪い言えば見識がないようだ。
どちらも鉄道と言う観点からいえば全力後進みたいな内容ですがそんなところでしょう。
よく言えば厳しくというのは、鉄道が公共交通としてオンリーではなく選択肢の1つとして捉えているのならば、公共交通の1手段でありその輸送需要・密度・地域性など環境からバスの方が向いていたり、バスでもコミュニティバスなどに転換した方がいいという結論もあるだろう。鉄道ファンとしては残念だけど需要の乏しい環境で存続させることは鉄道会社も営利団体である以上限界がある。勿論営利団体でなくても適正な規模というものがある。
では見識がないというのは・・・
一方的に高速道路を無料化して景気対策や地域活性化と謳う政策。
実験としては余りに影響が大きすぎ、環境の観点で見ても矛盾した政策。
車は経済を活性化させるほど裾野の広い産業と言うけれど、本当にそれでいいのか?
車を運転できない人が増えたときの足の確保は?
人口が減れば限られたパイの奪い合いになる。
神鉄もそうだが、ここにきて北近畿タンゴ鉄道も廃線の危機に瀕している。
直接の原因は舞鶴若狭道の無料実験ではないかと言われている。
国の実験の為に廃れてしまう・・・そんなことがあって良いのか 保証は?
和田岬線の話
実のところ地下鉄海岸線が建設されているときから既に廃線の話は出ていた。しかし、川重の甲種回送や利用者の便を図って電化したわけです。
そして地下鉄開通。明けてみれば地下鉄は需要を大きく下回る大赤字。この先はご想像で
もし本当に街の活性化プロジェクトで和田岬線が分断しているという意見が本物であれば悲しい限り。鉄道と人の距離が離れてしまっている証といえるのではと思う。個人的には和田岬線も含めたプロジェクトを計画が出来ないかと思う。例えばノスタルジックトレインとか、回旋橋を回るようにするとか。
今ままで一部ではファンはいたけども広く話題にならなかった分野が注目されてきたときって、どちらかというと本来あるべき姿が失われてきているときが多いように思う。広く鉄道が「日常」の生活の一部であり続けて欲しいと心から願いたい。
神戸新聞 利用客3割減 和田岬線の廃止検討 JR西日本
神戸電鉄・粟生線 11年度中に存廃判断へ
神戸新聞平成23年2月15日27面 県が負担金予算付けず
京都北部経済新聞 KTR一部路線廃止問題 9月までに結論へ 京都府
先日長野電鉄活性化協議会が長野電鉄屋代線の廃止を決めたが、これは同じ地方鉄道の粟生線の将来を写しているように思えてならない。
屋代線についても今回の決定に至るまでさまざまな事が考えられたようだ。
ただその結果、バスに転換した方がいいと言う決定に至った訳だ。
鉄道の運営にはバス以上に多額の費用がかかる。もちろんそれを支えられるだけの収益となる旅客があればいい訳だがそれが無ければ赤字となる。公共交通とはいえ私鉄である以上底なしの赤字が許されるわけではない。
廃止した場合の影響と存続のコストを試算した結果、回復の見込みが無い場合は廃止にするか、地元自治体が支えるしかない。つまり税金の投入。もっとも昨今の財政事情を鑑みると容易いことではなく、そうでなくてもあるべき規模を考えると適正化しなくてはならない。
廃止決定について反発する意見はもちろんあるだろう。ではその反発する人は本当に利用しているのか?
もちろん使っている人もいるだろう。実際はそうでないから廃止になるわけで、みんなが利用していて廃止になるのであればそもそも鉄道廃止の問題以前の問題ではないだろうか。それは町としての危機かもしれない。
2011年度中に存廃を決めるという神戸電鉄粟生線。
赤字鉄道への補助が打ち切られるのが今回のきっかけだが、実は公共交通への支援は形を変えて行われるようだ。そんな記事を神戸新聞の2012年2月6日7面社説に見つけた。従来は各交通機関に支給されていた補助を公共交通の存続として地元や運行会社、自治体などを巻き込んで策定されたプランを支援する方向になるという。
そうなってくるとますます重要なのが地元自治体と住人の公共交通維持に向けた姿勢だ。鉄道として公共交通を残すのか、バスにするのか。はたまた鉄道やバスにしても運営や運行方法を利用者が望む方向に変えていくのか。
えちぜん鉄道、富山ライトレール、和歌山電鐵など参考になる例も出てきているので将来にわたってよりより姿で続いていくことを期待したい。
12月16日付神戸新聞社会面の記事「地域公共交通 再生へ 1」として神戸電鉄粟生線の存続問題が取り上げられた。
2年後の国の補助金打ち切り。地方公共団体の厳しい財政状況。自動車への移行。
高齢化を控えるこの国の将来において公共交通は更に重要になっていくのにか、鉄道の将来は非常に厳しくなってきている。
記事にもあるが廃止で思い起こされるのが鍛冶屋線。
最近の三木鉄道。
後者は生活圏と一致していないという致命的な問題があったのでそれほど問題にならなかったが、鍛冶屋線は異なる。
鍛冶屋線の廃止は現在に至っても西脇市に大きな影響を与えているといえよう。
中心市街地から鉄道が消えることは即ち外との繋がりが切れるに等しい。
鍛冶屋線がなくなり、駅という人が集まるところが消えるとともに中心市街地はどんどんと衰退していった。一方で車社会に適応した周辺エリアに店舗や住宅地が集中するドーナツ化が顕著になった。
バスターミナルは旧西脇駅跡に出来たものの、バスと鉄道という公共交通の要が分散したために利便性が損なわれた。
粟生線は当時より深刻かもしれない。マイカーの普及と人口減少、バスへの流出。
地元住民の選択肢として鉄道がオンリーで無い上に、そもそも選択肢にもはいっていない状況になりつつあるのかもしれない。
そのことはこれほどまでに問題になりつつも地元の反応が今ひとつ鈍いことからも伺える。
皮肉にも広島の可部線は廃止区間の一部を電化復活させる動きがいよいよ現実になろうとしている。
今、公共交通としての鉄道を見捨てるのか、それとも将来にわたる公共の財産として残していくのか。
判断が迫られている時が刻一刻近づいている。